はとむぎ。の人生メモ

思いを言葉に。言葉を形に。

彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。

 こんにちは!はとむきです。

早いもので2021年も残り一ヶ月となりました。今年は色々ありましたね〜。 新型コロナやらオリンピックやら、なにかと大きな出来事がたくさんあったなーと思います。(薄い感想)

さて、そんなことは置いといて(笑)

皆さんは今年を振り返ってみてどうでしょうか?

めちゃくちゃ充実した一年を過すごせた!

そんな方はおめでとうございます✨🌞

 

いや〜今年も何もなかったかなぁ、、気づいたらもう今年も終わる、、

 

はい、そんな方は私と一緒です(笑)

なかなか日々の仕事や家事、人付き合いに追われて、自分の時間がない。 そんなことってよくあることだと思います。そして、毎年同じことを言いますよね。

今年ももう終わりか、、と😑

 

ということで、今回はそんな時間というものについて話をしていきたいと思います。

当たり前ですが、私達は容姿、年齢、性格、価値観など皆違います。しかし、時間についてはどんな人であれ平等にあります。

いやいや、私は1日が30時間あるよ!って方はいないでしょう。

それに、書籍を見渡しても時間術について書かれているものがこれでもかと出版されていますよね。これは、現在だけでなく、古典とよばれる本でも同じように時間について語られているものは多いです。

また、ユーチューブであったりツイッターであったり、ブログであったりと様々な形で発信する媒体はたくさんあります。

その中でも、生産性!効率的な方法!時短!といったことを発信しているのはよくみかけることかと思います。

そして、それが多くの人の目に止まるということは、やはりそれだけ人は時間について欠乏感や焦燥感があるのではないかと私は感じます。少なからず時間について意識しているんですね。

 

そうやって、時間について考えながら、たくさんの本を読んだりセミナーなどに参加したりと知識を増やしても、年末になると毎年のようになんとも言えない虚しさがあるといったことは経験ありませんか?(まさにこれを書いている私自身のことです😅)

 

ここで、この記事のタイトルの言葉が私にはすごい深く刺さりました。

 

彼は長く生きたわけではなく、長くいただけのことだ。

 

これは、ストア派として有名なセネカというローマ時代の哲学者の言葉です。

 

『人生の短さについて』

この本の中の一節なんですが、これはセネカが自分の義父であるパウリヌスに宛てた手紙なんですね。その中でセネカは生きるとはどういうことか、時間がどれほどまで貴重なものか、どれだけ多くの人が時間を無駄にしているのかということを多くの例と共に熱く語っています。

 

一言でいうと、今の仕事をやめて自分のためだけに時間を使いなさい。そういうことです(笑)

自分に言われているかのように、それくらい魂の籠もっている言葉で一つ一つに重みがあり、本当に自分が説得されている気分になりました(笑)

実際に友達から同じこと言われたら、わかったから、落ち着けと、そんなに熱くなるなよって言いたくなるほどです。

 

ちょっと話が逸れましたが、時間の使い方とは、人生の過ごし方であると。

その使い方を間違えると後悔するよってことなんでしょうね。

もちろん、そんなことは皆わかっていると思います。

ただ、わかっているけど実際のところです。本当にちゃんと自分の満足のいく時間の使い方ができているのか。

今日も充実した一日だったと思って眠ることができているのか。

時間を自分の満足いくように使うためには、自分がどう生きたいのかと深く関わってくると思います。

 

なぜ、ここまで私がこの言葉に惹かれるのか。

それは、やはり今の仕事がかなり影響しています。 私は介護施設で働いていますが、そこには当然ながら入居者さんがたくさんいらっしゃいます。80代、90代は当たり前です。100歳を超えている方も珍しくありません。 70代となると若いって感覚になります。私の方が全然若いわけなんですが😅

介護士あるある?)

 

「私はもう十分生きたよ。もういつ死んでもいい」

 

これは私が実際に言われることです。 こういったことを言われる入居者さんは少なくありません。

あたたはこの言葉をどう感じますか?

文字だけだと人によりけりだと思います。

ただ、これを言う入居者さんは私の印象ですが、多くがスッキリしていますね。

とても声も顔も落ち着いているんです。

そこには、悲観や恐怖、諦めのようなものは感じないんです。

 

この歳まで生きるとは思わなかった。有り難い。 ここまで世話してもらって。 そんな感謝の言葉が多いです。

 

80代、90代って人の一生で考えるともう終盤なんですね。死というものがすぐ近くに感じられる。それは年齢もそう、身体からもそう。

そうなると自然と自分の人生を振り返るんじゃないかと。

実際に入居者さんとお話をする中で、昔のことを話される方は多いです。

楽しかったこと、辛かったこと。

あなたと同じ歳の頃はねって。

だからこそ、そうなった時に初めて気づくんだろうと思います。

 

時間の大切さを。

 

でも、気づいたときにはもうその時間は残されていない。

「もう十分生きた」 そう言える方はおそらく、自分の人生に満足しているのではないかなって思います。

後悔もあるかもしれないけれど、それでも精一杯生きた。

生きたという実感があるんだろうなと。

それこそが、時間を無駄に浪費したわけではないんだと、私は入居者さんとの関わりの中で感じることです。

 

人はいつ死ぬか、どう死ぬかは決められません。しかし、どう生きるかは自分で決められるんですよね。

 

どうやって生きたか。

 

それが、人生の終わりが近づいてきた時に、十分生きた。と言えるのかどうかだと思います。

 

最後になりますが、自分の戒めの意味も込めてセネカの言葉を。

それではまた!ありがとうございました✨

 

 

誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。

彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことだ。

港から出た途端に嵐に遭い、あちこち翻弄された挙げ句、吹きすさぶ嵐が四方八方から代わる代わる吹きつけて、円を描くように同じところをぐるぐるもてあそばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。

彼は長いあいだ航海をしたのではなく、長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。