はとむぎ。の人生メモ

思いを言葉に。言葉を形に。

世界は3秒で変えられる

こんにちは!はとむぎ。です。

 

いきなりですが、質問させてください。

あなたは自分のことをポジティブだと思いますか?

それとも、ネガティブだと思いますか?

私はボジティブのほうだと思った方、ここまでありがとうございました。

そっとブログを閉じるか、他の気になる記事を見てきてください(笑)

自分のことをネガティブなほうだと思った方、どうかそのまま続きをご覧ください。

もしかしたら、あなたが求めているヒント見つかるかもしれません。

 

 

さてさて、今回は、あなたの見ている世界は本物か?

そんなテーマでお話していこうかと思います。

 

なんかやばそうなこと言ってる、、こわ、、

 

そんなあなた。

ちょっとお待ち下さい(笑)

これからお話する考え方は様々なことに応用できるのです。

 

仕事でミスをしてしまった最悪だ、、

なんだか漠然とモヤモヤする

恋人や友達とケンカをしてしまった

 

なんだっていいのです。 ささいなことや大きなトラブルまで、誰にでも起きますよね。

そんなときに役立つ考え方。

ふらっと寄ったコンビニで立ち読みをしている、そんな気持ちで読んでいただければ大丈夫です。

 

楽しいとつまらないは見ている場所が違うだけ

最初に今回のテーマでもっとも大切な言葉を紹介します。

 

美しい景色を探すな。 景色の中に美しさを探すのだ。

 

これは誰が言った言葉がご存知ですか?

実はこれ、画家として有名な ゴッホの言葉なんですね。

 

なるほどなぁ、、画家っぽいこと言ってるなぁ、、

 

私は最初はこんな感想でした。

ただ、この言葉ってよくよく考えるととても本質を突いたことなんじゃないかと思うんです。

この言葉を別の言葉に置き換えるとわかりやすいのかなと思います。

例えば、コンビニのバイトをしているとします。 

 

勤務時間が8時間。

その間の仕事はレジ打ちだけ。

バーコードを読み込む。

お金を受け取る。 お釣りを渡す。

商品を袋につめる。

 

基本的にはこのような流れかと。

私も4年間コンビニでアルバイトをしていたので、思い出すとこんな感じだったかと思います。

今では精算も機械で自動で行うところも増えましたよね。

そうなると、もっと作業は簡略化しているでしょう。 これを延々と8時間やるんですよ。

めちゃくちゃ退屈じゃないですか?

最初は楽しいと感じるかもしれませんが、これを毎日やるとなったら?

はい、私ならすぐ辞めますね。

ただ、レジ打ってるだけならつまらないですもん。

ここで、思い出してください。

 

美しい景色を探すな。 景色の中に美しさを探すのだ。

楽しい仕事を探すな。 仕事の中に楽しさを探すのだ。

 

こうなるわけですね。

ただ単調にレジ打ちだけをやっているだけだとすぐにつまらなくなります。

そこに、達成感も変化もないからです。

それならどうすればいいのか?

それは、レジ打ちの中に楽しさを見つけるんです。

 

絶対にお客さんの目を見て挨拶をする。

笑顔で自分からお客さんに話しかけてみる。

いつもタバコを買う常連の人であれば、言われる前にタバコを出しておく。

最後は絶対に大きな声で、ありがとうございましたを言う。

お札の数え方を上手くできるようになる。

 

実は、これは私がコンビニでバイトしていた時に実際にやっていたことの一部なんです(笑)

 

なんでもいいんですよ。

どうしたらこの作業が楽しくなるのか?

どうしたら、この単調な作業に充実感や達成感をつくることができるのか?

どうしたら?

どうやって?

この考え方が大事なんです。

見方を変えること。

つまり、物事を一面だけでなく、いろんな角度から眺めてみること。

そうやって自分から楽しさを探しに行くこと。

それだけで同じことをやっていても、まったく得られるものが違います。

今ある景色は変わらない。

それなら自分からその景色の中にきれいだと思うところを探す。

 

何かにつまづいたり、なんだか気持ちが晴れないときって誰しもありますよね。 そんなときにも、ゴッホの言葉を思い出してほしいと思います。

 

そして、今ある景色の中からきれいなものを探すためには

どうしたら?

どうやって?

こうやって自分に問いかけてください。

 これらの問いかけって、今より先を見据えたものですよね。

だからこそ、今あるところから変わることができるんです。

 

 

たった3行で1日がハッピーになる

もうひとつ、私が実践して変わったことがあります。

 

寝る前にその日の中で幸せだと思うことを3つだけ箇条書きで残すこと。

 

たったこれだけです。

数分もあれば十分なことです。

これは、スリーグッドシングスといい、世界の大学や研究でその効果は実証済み。

気になる方はぜひ調べてみてください。

私は半年ほど続けていますが、効果は実感しています。

書くことなんてほんとにくだらないことばっかりですよ笑

 

今日は天気が良くて気持ちが良かった

友達と話せて気分転換になった

今日も健康に生きられている

 

ポイントはよかったこと、幸せだなと思えること。

自分の中でそう思えることならなんでもいいんです。

誰に見せるわけでもないですしね(笑)

個人的には、毎日ちゃんとやらなくてもいいし頑張る必要はないと思います。 書くことが義務になると、それ自体が負担になってしまいますからね。

 

あ~今日も書けなかった

こんなことも続けられないのか

 

そんなことを思って気分が落ち込んでいたら逆効果です(笑)

ゆるーくやっていきましょ。

 

さて、ここでゴッホの言葉をまた思い出して欲しいんです。

すでに言ったように、自分から楽しいことを見つけにいく。

スリーグッドシングスもまさに同じことをしてるわけです。 いつもの生活の中に、良かったことや幸せだなと思うことを探していく。

 

何か面白いことないかな

楽しいことないかな

 

そんなことを言っている人って結構多いんじゃないかなと思います。

その気持ちは大事だと思います。

ただ、まずは今の生活の中に楽しさや面白いことはあるってこと。

自分で意識を向けるだけで、たくさんあったことに気づくはずです。

その上で、さらに楽しいことを増やしいくには どうしたら? どうやって?

そう考えてみてください。

今の現状に満足していないのに、さらに違うものを求めてもモヤモヤは残るんじゃないかと。

求めてるものが達成されない限り。

今に心が満たされれば自然とポジティブな感情はでてくるんですよ。

不思議なものですが、実際に私がそうだったように。

 

 

すべては自分次第

ここまで、言ってきたことを一言でまとめると

 

すべてのことは主観である

 

どういうこと?

そう思うかもしれませんね。

同じこと出来事であっても人によって感じ方は違いますよね。

 

同じコップを見ても

  • もう半分しか水が残っていない
  • まだ半分も水が残っている

何かミスをしてしまったときも、

  • あーもう最悪だ
  • このミスもいい学びになった

 

どうとでも捉えられるんです。

今ある現状や、起きた出来事が感情を作るんじゃない。

すべてはその人がどう解釈をするのか。

捉え方次第ということ。

これって、様々な偉人たちや心理学、哲学の本でも同じように言っているんです。

時代や思想、文化も違う人たちが同じことを伝えている。 ましてや、科学的なアプローチからもそうだと。

 

とはいっても、人は感情の生き物です。

感情があるから生活に彩りが生まれると思うんです。

だからこそ、それをなるべくプラスの感情に目を向けていくことが大事なことだと思います。

思考は湧き水のように自然と出てくるものです。

それを自分で止めることはできないんです。

しかし、頭に浮かんできた思考はそれ以上でも以下でもない。

ただ、自分が考えたことでしかなく感情や行動に直結するわけではないということです。

例えば、

 

ミスをした(事実)→自分はいつもこうだ、能力がない(思考)→悲しい、悔しい、やる気が起きない(感情)→泣く、怒鳴る、自暴自棄(行動)

 

このプロセスにおいて、事実は変えることはできません。

ただ、結果としてあるだけです。

思考の部分については、さまざまことはでてきますね。頭に浮かんでくるは自然なことです。

そんなものは放っておいていいんです。

重要なことは、そのまま受け取るのではなく思考したことを疑ってみること。

自分は能力がない、内向的なんだとか、周りから嫌われたんじゃないかと マイナスな方に自己評価をしてしまいがち。

 

しかし、それはどこに根拠があるんでしょうか?

何か客観的な数字や過去のデータでもあるんでしょうか?

 

もう一度言います。

結果はただの結果。それだけです。 良いも悪いもないんです。

そこに意味を持たせてるのは私達自身の思考そのもの。

そして、その結果をマイナスに解釈して自分自身の気持ちを傷つけているだけです。

思考の癖はすぐにどうこうできるものではありません。

なぜなら、あなたが長年積み重ねてきたものだからです。

だからこそ、その思考の癖を修整することができたなら、あなたが見る世界はまったく違うものになるはずです。

 

私も数年前までは、どうしようもなくネガティブで内向的で、そのくせ見栄だけは一丁前でした。

学生時代にはトイレに籠もって一人でお弁当も食べたこともあります。

だって、一人で食べてるところを見られたくなかったですから。

 

それくらい見栄だけはあって内向的だったんです。

そんな私でさえ、今ではちょっとのことでは傷ついたりへこんだりしません。

職場の人に引っかかるようなこと言われても大丈夫です。

誰かに言われたことに対して、自分で考えたことなんて当てにならない事は知っているから。

 

ん?どういうことだ?

まぁ、いいか。

自分にはあの人の考えてることはわかりっこないしなー。

 

そんな程度です。

だから、大丈夫です。

少しずつコツコツ。

こんなこと書いている私も完璧にこなせるわけではありません。

ただ、確実に言えることは数年前よりも成長していること。

小さな幸せにも気付けるようになった。

自分の言葉で自分を傷つけることは少なくなった。

これだけで、私の生活はだいぶ明るくなりました。

 

物事をネガティブに捉えがちなあなた

日々の生活にモヤモヤしているあなた

 

改めてこの言葉を送ります。

 

美しい景色を探すな。 景色の中に美しさを探すのだ。       

                      ゴッホ

 

 

 

物事は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいことはただ内心の主観からくるものに過ぎない。

第16代ローマ皇帝 

マルクス・アウレリウス

人生はやりたいことをやったもの勝ち

どうも!はとむぎ。です!

もうすっかり冬の寒さに近づいてきましたね〜。

こたつを出そうかと思う今日このごろです(´Д`)ハァ…

みなさんはもう冬支度はお済みでしょうか?

私はやらないといけないと思いつつ、面倒くささに勝てず寒さに耐えております、、。

こういう時って、後になればなるほどもっと早く準備すればよかったと思うんですよね(・_・;)

 

 

さてさて、そういうわけで今回は後悔について話していこうかと思います。

当たり前ですが、誰しも後悔なんてしたくないですよね?

わざわざ、自分から後悔をしようと何かを始めたり、行動なんてしないと思います。

後悔するのがたまらん、、最高、、(*´Д`)ハァハァ

そんな人はごく一部の変態じゃないかと笑

 

なぜ今さらそんな話をするのか?

それは、私が多くの人の人生という最後を見届けてきたからです。

私は高齢者施設で働いていますが、そこには長い人生を歩んできた方がたくさんいらっしゃいます。

そして、亡くなるまでその施設内で暮らしをするのです。 もちろん、場合によっては病院で息を引き取ることもありますが、最後は施設に戻り看取りをしたいという家族の希望は多いんです。

施設で働いていると、人の「死」というのはすぐ近くにあります。

亡くなる理由は様々です。

例えば、老衰で静かに息を引き取ることも、昼間まで変わりなかったのに突然の急変で亡くなることも。 転倒して頭を打ち出血多量で緊急搬送突然の吐血など挙げればキリがありません。 食事中も死の危険性はあるんです。 高齢者となると食事中に窒息する場合も珍しくはないんですよね。

 

そういった中で看取りという形で、入居者さんを支援することは多々あるんですね。 看取りというのは、もう命が長くはないでしょうと。いつ亡くなってもおかしくはない。

医師から判断された場合に、看取り期として切り替わります。 終末期ともいいますが、人生のほんとに最期ですよね。

医療福祉関係者であれば、そういった方はたくさん関わるかと思います。

ただ、そのような現場に携わらない方はイメージが湧きづらいのではないかと思います。

私が看取りを経験してきた範囲での感覚ですが、、

あ~、、命の灯火がまさに終わろうとしているんだな

と本当に感じるんです。

 

蝋燭ってってありますよね。

私はそのイメージなんです。 蝋燭って最初は炎も長く真っ直ぐで力強さがあります。 しかし、最後のほうは蝋燭も溶けすっかり小さくなり、炎もゆらゆら、今にも消えそうな、、

 

私は、看取りの方を支援していると本当にそんな風に感じるんです。 そして、静かに呼吸が止まる瞬間も見届けたこともあります。 見回りに行ったら、息をしていなかったということもあります。 家族が泣いている中、一緒に最期を看取ったこともあります。

 

そのように人が死ぬということ、人生の幕が閉じるということ、それを見るたびに思うことがあるんです。

 

この人はどんな人生を歩んだのだろうか。

どんな考えで人生を生きてきたのだろろうか。

楽しかったこと、辛かったこと、幸せだったこと、この人はどんな日常を過ごしてたのだろうか。

長い人生で最後は後悔なく旅立てたのだろうか。

色々あったかもしれないけど、人生を振り返って満足できてたのだろうか。

 

そのような経験をする中で、自分の人生について真剣に考えることは増えました。

そした、出た結論があります。

 

死ぬときに後悔はしたくないということ。

失敗とか成功とか関係なく、自分の命を精一杯に生きれた。 

そう思える人生にすると。

 

もしかしたら、ありきたりなことかもしれません。

ただ、たくさんの人の最期を見てきた。 

人生の本当に終わりというのを肌で感じた。

その経験は、心の底から私の人生観を変えました。

だからこそ、本気で精一杯生きたい。 そう思えるんです。

 

話が長くなりましたが、ここでもう一つだけ後悔についての話をさせてください。

冒頭にも話しましたが、人間というのは誰しも後悔はしたくないと思うのが自然なことなんですね。

これを「後悔回避バイアス」ともいいます。

そして、その後悔というのは短期的なものと長期的なもので何に後悔するのかが違うんです。

なんだと思いますか?

 

人は短期的にはやってしまったことや失敗したことに後悔するのに、長期的にはやらなかったことに後悔をするんです。

 

なんだか矛盾してるようにも思いますよね。

ただ、これって例をあげると

 

あなたに挑戦したいことがあるとします。

それは転職でも起業でも、好きな人に告白するとか、どこかに旅行に行くでもなんでもいいんです。

意を決して挑戦したとしましょう。

しかし、何かトラブルが起きたり上手くいかなかった。

その後ってどういう感情になるでしょうか。

おそらく、、、

 

「こんなことやらなければよかった 」

「もっと違うことができたんじゃないか」

 

そうように失敗したことに対して自分を責めたり、絶望感を感じるのではありませんか?

一度はそんな経験はあるかと思います。

 

では、これに挑戦しなかった場合ではどうでしょう?

やりたいことがあるが、失敗が怖い。

家庭の事情でそんなことはできない。 

やれない理由はどんなであれ、歳を重ねててしまいました。

そして、いざ自分の人生が残りわずかと気づいたとき。

 やりたいと思ってから何十年も過ぎてしまったとき。

 

「あのときやっていれば成功していたかもしれない。」

「なんであの時に挑戦しなかったんだ。」

「あと10年でもいいから戻りたい。」

 

このように思うのではないでしょうか。

これって聞くと 不思議なことではなく、それはそうだろうと思うかもしれません。

しかし、自分の人生を振り返ったときに心から後悔なく満足できる人はどれほどいるでしょうか?

 

実際に死が近づいている人に、 「人生で後悔していることは何か?」 ということを聞くと、一番多いのが自分のやりたいことに挑戦しなかったことだそうです。

 

興味のある方は、いま言ったようなことについての本や研究結果は検索すれば出てきます。

 

これらを踏まえ、タイトルに繋がるわけですが 人生はやりたいことをやったもの勝ち。

ありきたりな言葉がですが、ただ知っているということではない。

たくさんの人の最期を見てきた。

人間の心理とは後悔を避けたがるもの。

だからこそ、失敗が怖くてやりたいことができない。

しかし、歳を重ねるとやらなかったことが後悔になる。

いくら悔やんでも時間は戻らない。

ただただ、やっておけばよかったと後悔しながら死に向かう。

そんなのは私は絶対に嫌です。

 

みなさんは今までやりたいことをやれましたか?

これからやってみたいことはなんですか?

今の生活に心から満たされていますか?

 

最後になりますが、私が好きな言葉を。

最後まで読んでいただきありがとうございました(*´∀`)

 

 

今から20年後、あなたはやったことよりもやらなかったことに失望する。

ゆえに、もやい綱を解き放ち、安全な港から船を出し、貿易風に帆をとらえよ。

探検し、夢を見、発見せよ。

【トムソーヤの冒険】著者 マーク・トウェイン

 

 

彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。

 こんにちは!はとむきです。

早いもので2021年も残り一ヶ月となりました。今年は色々ありましたね〜。 新型コロナやらオリンピックやら、なにかと大きな出来事がたくさんあったなーと思います。(薄い感想)

さて、そんなことは置いといて(笑)

皆さんは今年を振り返ってみてどうでしょうか?

めちゃくちゃ充実した一年を過すごせた!

そんな方はおめでとうございます✨🌞

 

いや〜今年も何もなかったかなぁ、、気づいたらもう今年も終わる、、

 

はい、そんな方は私と一緒です(笑)

なかなか日々の仕事や家事、人付き合いに追われて、自分の時間がない。 そんなことってよくあることだと思います。そして、毎年同じことを言いますよね。

今年ももう終わりか、、と😑

 

ということで、今回はそんな時間というものについて話をしていきたいと思います。

当たり前ですが、私達は容姿、年齢、性格、価値観など皆違います。しかし、時間についてはどんな人であれ平等にあります。

いやいや、私は1日が30時間あるよ!って方はいないでしょう。

それに、書籍を見渡しても時間術について書かれているものがこれでもかと出版されていますよね。これは、現在だけでなく、古典とよばれる本でも同じように時間について語られているものは多いです。

また、ユーチューブであったりツイッターであったり、ブログであったりと様々な形で発信する媒体はたくさんあります。

その中でも、生産性!効率的な方法!時短!といったことを発信しているのはよくみかけることかと思います。

そして、それが多くの人の目に止まるということは、やはりそれだけ人は時間について欠乏感や焦燥感があるのではないかと私は感じます。少なからず時間について意識しているんですね。

 

そうやって、時間について考えながら、たくさんの本を読んだりセミナーなどに参加したりと知識を増やしても、年末になると毎年のようになんとも言えない虚しさがあるといったことは経験ありませんか?(まさにこれを書いている私自身のことです😅)

 

ここで、この記事のタイトルの言葉が私にはすごい深く刺さりました。

 

彼は長く生きたわけではなく、長くいただけのことだ。

 

これは、ストア派として有名なセネカというローマ時代の哲学者の言葉です。

 

『人生の短さについて』

この本の中の一節なんですが、これはセネカが自分の義父であるパウリヌスに宛てた手紙なんですね。その中でセネカは生きるとはどういうことか、時間がどれほどまで貴重なものか、どれだけ多くの人が時間を無駄にしているのかということを多くの例と共に熱く語っています。

 

一言でいうと、今の仕事をやめて自分のためだけに時間を使いなさい。そういうことです(笑)

自分に言われているかのように、それくらい魂の籠もっている言葉で一つ一つに重みがあり、本当に自分が説得されている気分になりました(笑)

実際に友達から同じこと言われたら、わかったから、落ち着けと、そんなに熱くなるなよって言いたくなるほどです。

 

ちょっと話が逸れましたが、時間の使い方とは、人生の過ごし方であると。

その使い方を間違えると後悔するよってことなんでしょうね。

もちろん、そんなことは皆わかっていると思います。

ただ、わかっているけど実際のところです。本当にちゃんと自分の満足のいく時間の使い方ができているのか。

今日も充実した一日だったと思って眠ることができているのか。

時間を自分の満足いくように使うためには、自分がどう生きたいのかと深く関わってくると思います。

 

なぜ、ここまで私がこの言葉に惹かれるのか。

それは、やはり今の仕事がかなり影響しています。 私は介護施設で働いていますが、そこには当然ながら入居者さんがたくさんいらっしゃいます。80代、90代は当たり前です。100歳を超えている方も珍しくありません。 70代となると若いって感覚になります。私の方が全然若いわけなんですが😅

介護士あるある?)

 

「私はもう十分生きたよ。もういつ死んでもいい」

 

これは私が実際に言われることです。 こういったことを言われる入居者さんは少なくありません。

あたたはこの言葉をどう感じますか?

文字だけだと人によりけりだと思います。

ただ、これを言う入居者さんは私の印象ですが、多くがスッキリしていますね。

とても声も顔も落ち着いているんです。

そこには、悲観や恐怖、諦めのようなものは感じないんです。

 

この歳まで生きるとは思わなかった。有り難い。 ここまで世話してもらって。 そんな感謝の言葉が多いです。

 

80代、90代って人の一生で考えるともう終盤なんですね。死というものがすぐ近くに感じられる。それは年齢もそう、身体からもそう。

そうなると自然と自分の人生を振り返るんじゃないかと。

実際に入居者さんとお話をする中で、昔のことを話される方は多いです。

楽しかったこと、辛かったこと。

あなたと同じ歳の頃はねって。

だからこそ、そうなった時に初めて気づくんだろうと思います。

 

時間の大切さを。

 

でも、気づいたときにはもうその時間は残されていない。

「もう十分生きた」 そう言える方はおそらく、自分の人生に満足しているのではないかなって思います。

後悔もあるかもしれないけれど、それでも精一杯生きた。

生きたという実感があるんだろうなと。

それこそが、時間を無駄に浪費したわけではないんだと、私は入居者さんとの関わりの中で感じることです。

 

人はいつ死ぬか、どう死ぬかは決められません。しかし、どう生きるかは自分で決められるんですよね。

 

どうやって生きたか。

 

それが、人生の終わりが近づいてきた時に、十分生きた。と言えるのかどうかだと思います。

 

最後になりますが、自分の戒めの意味も込めてセネカの言葉を。

それではまた!ありがとうございました✨

 

 

誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。

彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことだ。

港から出た途端に嵐に遭い、あちこち翻弄された挙げ句、吹きすさぶ嵐が四方八方から代わる代わる吹きつけて、円を描くように同じところをぐるぐるもてあそばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。

彼は長いあいだ航海をしたのではなく、長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。

はとむぎ。と申します

はじめまして! はとむぎ。です(´ε` )

最初なので簡単な自己紹介をさせてください。
私は介護施設で働き5年になります。現在27歳になり、30歳が目前になりました。少しばかり焦っています笑
この焦りがきっかけでブログを始めてみようと思い、今に至るわけです。

なにをそんなに焦っているのかと。まだ若いんだから大丈夫だよと、周りの人にはよく言われますが、、
良くも悪くも、現在まで気楽に生きてきました。
それゆえに、このままでいいのだろうか、、?と自問自答する日々でした。
高齢者と日々関わる中で、自分の人生について考えることが増えモヤモヤしていたんです。人生に充実感がなかったんですね。

それならば、今までやったことないことをやってみよう。やれることはぜんぶやってみようと。
その一つとして、自分が考えてること、体験したこと、心動いたことなど記録として残してみようと思いました。

そんなわけで、このブログでは自分に向けて書いてるようなもので笑
もちろん、読んでくれた方が何か少しでも感じることがあれば嬉しい限りです✨
拙い文章ではありますが、どうぞよろしくお願いします(^^)